3か月前に退職した営業の社員から、代理人の弁護士名で内容証明郵便が届いた。請求されているのは2年3か月分の割増賃金で、金額は480万円である。当社は営業職に月額7万円の営業手当を支給しており、賃金規程には「営業手当は時間外労働の対価として支給する」という1行がある。この手当がある以上、既に支払済みではないかという御相談を、この段階でお受けします。
固定残業代は、割増賃金を支払う方法の一つです。定額を支給しておけば時間外労働の全部を賄えるという制度ではありません。争いは、その手当が割増賃金の弁済に当たるかどうかに集中します。弁済と認められれば請求額は大きく減り、認められなければ、支給していた事実がかえって不利に働きます。
結論から申し上げます。固定残業代の定めが有効と認められるかどうかは、通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別することができるか、そしてその手当が時間外労働の対価として支払われたものといえるか、という二点で決まります。労働基準法第37条第1項は、時間外又は休日の労働について、通常の労働時間又は労働日の賃金の計算額の一定の率以上の率で計算した割増賃金を支払わなければならないと定めています。以下、順に御説明します。
本記事が扱う場面と、扱わない場面
割増賃金の争いは論点ごとに作業が分かれますので、次のとおり切り分けます。
- 固定残業代の定めが弁済として認められるかどうかを争う場面……本記事
- 労働時間の認定や消滅時効を含め、請求全体への反論を組み立てる場面……残業代請求への対応|元従業員から請求された場合の反論の組み立て方(使用者側)
- 会社の売却に先立ち、未払分を自ら洗い出して精算する場面……M&Aの前に判明した未払賃金等の労務上の債務を是正する手順
- 請求が労働審判の申立てに至った場面……労働審判の申立てを受けてから第1回の期日までに会社が行うこと
固定残業代の定めは、支払ったことになる場合とならない場合があります
労働基準法第37条第1項は、割増賃金を支払うべきことを定めていますが、その計算の過程や支給の名目までを定めているわけではありません。したがって、あらかじめ一定額を定めて支給する方法自体は、禁じられていません。
問われるのは、その支給が弁済としての効力を持つかどうかです。認められれば、支給した額の限度で割増賃金は支払済みとして扱われ、実際に発生した額との差額のみが未払となります。認められなければ、その手当は通常の労働時間の賃金として扱われます。
この二つの結論の間には、控除の可否という以上の差があります。控除されないだけでなく、支給していた手当が割増賃金の単価を押し上げるためです。同じ7万円が、控除される7万円になるか、単価を上げる7万円になるかで、結論は逆の方向へ動きます。
判別することができることという要件
第一の要件は、賃金のうち通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを区分して認識できることです。区分ができなければ、支給額のどこまでが弁済であったのかを確定できません。
この観点から、基本給に組み込む形は原則として認められません。「基本給30万円には時間外労働に対する賃金を含む」という定めでは、30万円のうち何円が割増賃金なのかが分かりません。独立した手当として支給し、その金額を明示する構成をとります。労働基準法第89条第2号は、賃金の決定、計算及び支払の方法等を就業規則に記載しなければならないと定めていますので、その記載の中で区分を明らかにしてください。
実務では、三つの書面の記載を一致させることが要点です。就業規則又は賃金規程、個々の雇用契約書、そして毎月の給与明細です。給与明細で独立の項目として表示されていない手当は、区分されていたと説明することが困難になります。深夜及び休日の割増賃金まで含める設計とする場合には、それぞれの内訳を示してください。
対価としての性質があるかどうか
区分ができていても、その手当が時間外労働の対価として支払われたものでなければ、弁済とは認められません。これが第二の要件です。
判断の材料は五つあります。雇用契約書及び賃金規程の文言。手当が導入された経緯と、導入時の説明の内容。採用の際に示した労働条件の記載。支給の実態、すなわち時間外労働のなかった月にも同額が支給されているか、遅刻や欠勤で減額されているか。そして、名称が示す意味との整合です。
注意が必要なのは、名称をそのままにして定めだけを追加する場合です。営業手当、役職手当といった名称は、職務の内容や職責に対する対価という理解を伴います。同じ手当が職責への対価であると同時に時間外労働の対価でもあるという説明は、一方の限度で他方の額を不明確にしますので、区分の要件にも影響します。名称を「固定時間外手当」等に改め、他の趣旨を含ませないことが安全です。
何時間分に相当するのかを明示する必要
金額を示すだけでは足りず、その金額が何時間分の割増賃金に相当するのかを明示してください。時間数の明示は、区分の要件と対価性の双方を裏付けます。時間数が示されていなければ、超過が生じたかどうかを判定することもできません。
算定の基礎となるのは、労働基準法施行規則第19条第1項が定める1時間当たりの賃金額です。月によって定められた賃金については、その金額を月における所定労働時間数で除して算出し、月によって時間数が異なる場合には1年間における1か月平均の所定労働時間数を用います。この単価に割増率と時間数を乗じた額が、固定額の根拠となります。
時間数の設定には限度があります。労働基準法第32条は、1週間について40時間、1日について8時間を超えて労働させてはならないことを定めており、これを超える労働は、協定と割増賃金の支払を前提とした例外です。時間外労働の上限に関する規制の範囲を超える時間数を前提とした設計は許されません。月45時間を上回る時間数を前提とすることは避けてください。基本給や所定労働時間数を改定すれば単価が変わりますので、そのつど再計算し、規程と契約書を差し替えます。
差額の支払の合意があるかどうか
設定した時間数を超えて時間外労働が行われた場合に差額を支払う旨の定めを置き、かつ、実際にその運用を行っていることが求められます。定めがあっても、超過した月に一度も支払った実績がなければ、制度が形だけのものであったと評価されます。
運用の要点は三つです。第一に、労働時間を客観的な方法で把握することです。把握していない会社では、超過の有無を判定できません。第二に、毎月、固定額に相当する時間数と実際の時間数を対比した記録を残すことです。第三に、超過分を当月又は翌月の給与で支払い、給与明細に別の項目として表示することです。
この三つが揃っていれば、請求を受けた際に、制度が実際に機能していたことを資料で示すことができます。逆に、これらを欠いたまま定めだけを整えている会社は、区分と対価性の要件を満たしていても、運用の実態から効力を否定される場面が生じます。
無効とされた場合に生ずる計算上の影響
影響は二段で生じます。第一に、支給していた手当が弁済として控除されません。第二に、その手当が割増賃金の基礎となる賃金に算入され、1時間当たりの単価が上昇します。
労働基準法第37条第5項は、割増賃金の基礎となる賃金には家族手当、通勤手当その他厚生労働省令で定める賃金を算入しないと定めています。労働基準法施行規則第21条は、これを受けて、別居手当、子女教育手当、住宅手当、臨時に支払われた賃金、1か月を超える期間ごとに支払われる賃金を掲げています。固定残業代として支給していた手当は、いずれにも該当しません。
数値で示します。基本給25万円、固定額7万円、1か月平均所定労働時間160時間の場合、定めが有効であれば単価は1,562円となり、支給済みの7万円が控除されます。無効であれば、基礎となる賃金は32万円、単価は2,000円に上がります。単価が約28パーセント上昇し、月7万円の控除も失われますので、請求額は数倍に膨らみます。退職者については、賃金の支払の確保等に関する法律第6条第1項が、退職の日の翌日から支払をする日までの期間について年14.6パーセントの割合による遅延利息を定めています。
制度を作り直す場合の移行の設計
前提として、既に発生した債務は、規程の作り直しによっては消えません。改定は将来に向けた作業です。選択肢は二つあり、固定額の仕組みを廃止して実際の時間数に応じて支払う方法と、区分と対価性の要件を満たす形に定め直す方法です。
いずれの方法でも、賃金の総額が下がる形にしますと、労働条件の不利益な変更の問題が生じます。労働契約法第7条は、使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合には、労働契約の内容はその就業規則で定める労働条件によるものとすると定め、同法第10条は、就業規則の変更によって労働条件を変更する場合の要件を定めています。総額を維持するのであれば、固定額に相当する部分を基本給へ振り替え、時間外労働は実額で支払う構成が明快です。
ただし、この構成では基本給が上がりますので、単価も上がり、人件費の総額は増加します。着手の前に、直近12か月の実際の時間外労働の時間数を用いて、新旧いずれの人件費も試算してください。手順は、規程の改定案の作成、労働者の過半数を代表する者からの意見の聴取を含む所定の手続、個別の説明と同意の取得、雇用契約書の差替え、給与明細の様式の変更の順です。
なぜ「営業手当に含む」という定めだけでは足りないのか
足りない理由は三つあります。第一に、区分ができません。営業手当7万円のうち何円が割増賃金なのか、何時間分に相当するのかが、この文言からは定まりません。第二に、対価としての性質を示せません。営業手当という名称は営業職の職務に対する手当という理解を伴いますので、裏付ける資料が別に必要になります。第三に、超過分の支払という運用が伴いません。
書き換えるべき文言は決まっています。「営業手当7万円は、時間外労働30時間分に相当する割増賃金として支給する。1か月の時間外労働が30時間を超えた場合には、その超えた部分の差額を支払う」という形です。雇用契約書に同じ内容を記載し、給与明細に固定時間外手当として独立に表示します。
想定すべき相手方の主張は、次のとおりです。当該手当は営業職に一律に支給されており、時間外労働の有無にかかわらず同額である。入社の際に割増賃金であるという説明を受けていない。超過分が支払われた月が一度もない。反論の材料は、規程と契約書の文言、採用時に交付した労働条件の書面、時間数を対比した記録、差額を支払った実績です。
弁護士に任せられる範囲と、依頼の時期
弁護士が担うのは、規程と契約書の文言の点検、区分と対価性に関する主張の組立て、請求額の試算、相手方の代理人に対する回答書の作成、交渉、労働審判又は訴訟における主張と立証、そして将来に向けた制度の作り直しです。回答の内容は後の手続で用いられますので、最初の1通から関与する意味があります。
依頼の時期は、内容証明郵便を受け取った時点です。制度の見直しのみを目的とする場合には、賃金の改定を予定している時期の3か月前から着手すると、移行の手続を無理なく組むことができます。
いま確認していただきたいこと
賃金規程を開き、固定額に関する条項の全文を書き出してください。確認すべきは、手当の名称、金額、相当する時間数の記載、差額の支払に関する定め、そして深夜及び休日の取扱いです。次に、雇用契約書の該当箇所と、直近12か月分の給与明細の項目を並べ、記載が一致しているかを確かめます。
あわせて、1か月平均の所定労働時間数の算定根拠と、現在用いている単価の計算式を確認してください。最後に、直近12か月について、固定額に相当する時間数を超えた月がいくつあるか、その月に差額を支払っているかを一覧にします。この一覧が、制度が機能していたかを示す最も直接的な資料です。
よくあるご質問
年俸制であれば、固定残業代の定めは不要ですか
不要にはなりません。年俸制は賃金の決め方に関する仕組みであり、割増賃金の支払義務を免れさせるものではありません。年額に含める場合であっても、区分、対価としての性質、時間数の明示、超過分の支払という要件は、月給の場合と同じです。
管理職には固定残業代を設けなくてよいですか
役職の名称のみで判断することはできません。労働基準法上の管理監督者に当たるかどうかは、職務の内容と権限、労働時間の裁量、待遇によって判断されます。該当しない場合には支払義務が生じますので、管理職についても設計を検討してください。管理監督者に当たる場合でも、深夜の割増賃金の支払義務は残ります。
何時間分まで設定してよいのですか
条文に上限の定めはありませんが、時間外労働の上限に関する規制の範囲を超える時間数を前提とすることはできません。月45時間を上回る設定は、その時間数の労働を想定していたこと自体が問題とされますので、実際の平均的な時間数に近い水準としてください。
手当の金額を下げて、時間数も減らすことはできますか
賃金の総額が下がる変更に当たりますので、個別の同意を得るか、就業規則の変更によることになります。同意を求める場合には、変更前後の金額と時間数を示した書面を交付し、検討する時間を置いてください。時間数のみを減らして金額を据え置く形であれば、不利益とはなりません。
おわりに
固定残業代の争いは、制度を設けたかどうかではなく、区分され、対価と説明でき、超えた分を払っていたかで決まります。規程、契約書、給与明細の三つを一致させ、毎月の時間数を対比し、超過分を実際に支払う。これが揃っていれば、支給してきた額はそのまま反論の土台になります。必ず解決できますから、一緒に頑張りましょう。
固定残業代の定めと割増賃金の請求に関する御相談
弁護士法人M&A総合法律事務所 電話番号 03-6435-8418
受付時間 8:00-21:00(土日祝含む)
出典
- 労働基準法第37条第1項及び第5項(時間外、休日及び深夜の割増賃金)、第32条(労働時間)、第89条第2号(作成及び届出の義務・賃金に関する事項)
- 労働基準法施行規則第19条第1項(割増賃金の基礎となる1時間当たりの賃金額の算定)、第21条(割増賃金の基礎となる賃金に算入しない賃金)
- 労働契約法第7条(労働契約の内容と就業規則)、第10条(就業規則による労働条件の変更)
- 賃金の支払の確保等に関する法律第6条第1項(退職労働者の賃金に係る遅延利息)
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