M&Aの前に判明した未払賃金等の労務上の債務を是正する手順

株式の譲渡による会社の売却を決め、買主候補との間で基本合意の直前まで進んだ段階で、営業部門の管理職12名について割増賃金を一切支払っていなかったことが判明した。タイムカードと給与明細を突き合わせて3年分を試算すると、金額は数千万円に達する。こうした御相談を数多くお受けします。

未払賃金は、貸借対照表に現れない債務です。株式の譲渡では会社の法人格がそのまま残りますので、この債務も会社に残ったまま買主の下へ移ります。買主の側は、そのことを知っていますので、人事労務に関する調査を初期の段階で行い、賃金台帳、出勤簿、就業規則、時間外労働に関する協定の届出書の提出を求めてきます。会社の内部で気付かれていない事項が、外部の調査によって先に発見されるという順序が、ここで生じます。

結論から申し上げます。未払賃金等の労務上の債務は、買主から指摘を受ける前に売主の側で金額の算定を終え、精算に着手しておくことが、譲渡価格の下落と表明保証違反に基づく請求の双方を避ける方法です。労働基準法第24条第1項は、賃金は通貨で直接労働者にその全額を支払わなければならないと定めており、支払われていない部分は、時効が完成しない限り債務として存続します。以下、順に御説明します。

本記事が扱う場面と、扱わない場面

M&Aと労務の問題は、時期によって論点が入れ替わりますので、次のとおり切り分けます。

労務の問題は、価格の交渉より先に表に出ます

買主が対象会社の調査に着手するとき、財務の数値よりも先に整うのが人事労務の資料です。賃金台帳、出勤簿、雇用契約書、就業規則、賃金規程、時間外労働・休日労働に関する協定の届出書。いずれも既に存在する書類ですので、提出までの時間が短く、調査の初期に手元に届きます。数値の分析に時間を要する事業計画よりも、労務の齟齬の方が早く発見されるという順序になります。

そこで見つかった齟齬は、価格の交渉の材料としてではなく、取引の前提条件として持ち出されます。具体的には、実行の前提として未払分の精算を完了させることを求められるか、金額が確定しない場合には、想定される上限額を譲渡代金から留保するという扱いになります。いずれの場合も、売主が受け取る金額は減ります。

売主の側で先に算定を終えていれば、この局面の性質が変わります。提出するのは「調査を経て確定した金額と、その精算の進捗」ですので、交渉は、確定した金額をどちらが負担するかという一点に絞られます。

是正の対象となる債務の範囲をどこまで遡るのか

遡る範囲を決めるのは、時効と、資料の保存期間の二つです。労働基準法第115条は、賃金の請求権はこれを行使することができる時から5年間行使しない場合においては時効によって消滅すると定めています。もっとも、同法の附則により、退職手当を除く賃金の請求権については、当分の間3年とされています。起算点は、各月の賃金の支払期日です。

資料の側では、労働基準法第109条が、賃金台帳その他労働関係に関する重要な書類を5年間保存しなければならないと定めており、これも附則により当分の間3年とされています。したがって、実務上の作業の範囲は、直近3年分となるのが通常です。

対象となる者の範囲も、同時に決めます。在職している従業員だけでなく、直近3年以内に退職した者も対象です。退職者については、賃金の支払の確保等に関する法律第6条第1項が、退職した労働者に係る賃金の全部又は一部を退職の日までに支払わなかった場合には、退職の日の翌日から支払をする日までの期間について年14.6パーセントの割合による遅延利息を支払わなければならないと定めていますので、放置している期間が長いほど負担が増えます。

未払賃金の算定に必要となる資料

算定は、三つの数値を確定させる作業です。第一に、割増賃金の基礎となる1時間当たりの賃金額。第二に、法定労働時間を超えて労働した時間数。第三に、労働基準法第37条第1項が定める割増率です。同項は、時間外又は休日の労働について、通常の労働時間又は労働日の賃金の計算額の2割5分以上5割以下の範囲内で政令で定める率以上の率で計算した割増賃金を支払わなければならないと定めています。

基礎となる賃金額を出すために必要な資料は、賃金台帳、給与明細、賃金規程、雇用契約書です。家族手当、通勤手当、住宅手当など、算定の基礎から除外することができる手当は限られていますので、名称ではなく支給の実態によって判別します。一律に定額で支給している住宅手当は、除外の対象になりません。

労働時間を出すために必要な資料は、出勤簿又はタイムカード、業務用端末の起動及び終了の記録、入退館の記録、業務日報、社用の携帯電話の通話記録です。これらが相互に食い違う場合、より客観性の高い記録が基準となります。

従業員に対する精算の申入れの順序

順序は、退職者、次に在職者、その中でも金額の大きい者から、という順です。退職者を先にする理由は、遅延利息が加算され続けること、そして退職者は在職者よりも早く外部へ相談する傾向があることの二つです。

申入れは、必ず個別に行います。全体の説明会を開いて一斉に伝える方法は、会社の側が金額の根拠を各人に示せない状態を作り出しますので、避けてください。個別の面談では、対象期間、月ごとの時間数、単価、割増率、合計額を記載した計算書を交付し、その場で説明します。

支払の合意は、書面にします。記載すべきは、対象期間、支払額、支払期日、支払方法、そして当該期間の賃金に関し他に債権債務がないことを相互に確認する条項です。してはならないのは、計算の根拠を示さないまま一律の解決金として支払うこと、そして退職や配置の変更を精算の条件とすることです。前者は後日の追加請求を招き、後者は精算そのものの効力を危うくします。

社会保険料及び労働保険料の追徴への備え

健康保険法第161条第1項は、被保険者及び被保険者を使用する事業主は、それぞれ保険料額の2分の1を負担すると定めています。厚生年金保険法第82条第1項も、同様に折半して負担すると定めています。したがって、遡及して支払う賃金に対応する保険料のうち、事業主が負担する部分は会社の追加の支出となります。従業員が負担すべき部分を賃金から控除するには、労働基準法第24条第1項が定める全額払いの原則の例外に当たる必要がありますので、控除の根拠を確認してください。

労働保険については、労働保険の保険料の徴収等に関する法律第15条第1項が、事業主は保険年度ごとに、その保険年度に使用するすべての労働者に係る賃金総額の見込額に、一般保険料に係る保険料率を乗じて算定した概算保険料を申告し、納付しなければならないと定めています。賃金総額が増えれば、後の確定の段階で不足額が生じます。資金の手当てとしては、支払う賃金の総額に、これらの負担分を上乗せした額を見込んでください。

就業規則及び賃金規程の改定を先行させる場合の限界

是正の相談を受けた会社が最初に着手しようとするのが、規程の作り直しです。順序としては誤りです。規程の改定は将来に向かってのみ効力を持ちますので、既に発生した債務は、改定によって消えません。

とりわけ、固定残業代の定めを新たに設けて過去の支払に充当するという構成は、成り立ちません。過去に支払った賃金のどの部分が割増賃金であったのかは、支払った当時の定めによって決まります。後から名目を付け替えても、当時の支払の性質は変わりません。

また、改定の内容が労働条件の引下げを伴う場合には、別の制約が加わります。したがって、作業の順序は、算定、精算、そして制度の改定という順になります。改定に着手してよいのは、過去の債務の金額が確定し、精算の合意が整った後です。

是正の途中でM&Aの交渉に入る場合の開示の仕方

精算が完了する前に交渉が進む場合、開示の方法を設計します。開示しないという選択は採れません。株式譲渡契約における表明保証では、労働関係法令の遵守及び未払賃金の不存在が定型的な項目とされていますので、これに反する事実を秘したまま実行すれば、後に補償の請求を受けます。

提出する資料は三点です。第一に、対象者、対象期間及び金額を記載した算定書。第二に、精算の合意が成立した者と未成立の者を区分した進捗表。第三に、精算に伴って生ずる社会保険料及び労働保険料の追加負担の見積りです。

契約上の処理としては、当該事項を表明保証の対象から明示的に除外したうえで、特別補償の条項を設け、負担の上限、請求の期間及び手続を定めます。これにより、買主は不確実性を抱えずに済み、売主は無限定の責任を負わずに済みます。開示の時期は、基本合意の前が最善です。基本合意の後に開示すれば、価格の再交渉という形をとりますので、心証の面でも不利になります。

なぜ是正を後回しにすると価格が下がるのか

買主が金額を見積もる方法に理由があります。金額が確定していない債務について、買主は最も不利な前提を置きます。対象者を全従業員とし、期間を時効の上限とし、労働時間を客観的な記録の最大値として計算します。売主が想定する金額の2倍から3倍の数値が出るのは、この積み上げの結果です。

さらに、譲渡代金の一部を留保する取扱いが加わります。留保された金額は、一定の期間が経過し、請求がないことが確認されるまで支払われません。売主が実際に受け取る時期は、実行から1年以上先になります。

これに対し、算定と精算を終えていれば、買主が置く前提は不要になります。既に支払った金額は確定した費用であり、合意書によって追加請求の可能性が限定されています。減額の交渉は、確定した金額の範囲内で行われます。後回しにすることで失われるのは、この差額と、留保された資金を早期に受け取る利益です。

弁護士に任せられる範囲と、依頼の時期

弁護士が担うのは、算定の範囲と方法の設計、資料の収集と保全、社会保険労務士及び税理士との作業の分担、個別の面談で用いる計算書及び合意書の作成、退職者に対する連絡の方法の決定、労働基準監督署から是正の勧告を受けている場合の対応、そして買主に対する開示資料の作成と表明保証及び特別補償の条項の交渉です。

依頼の時期は、会社の売却を検討すると決めた時点です。買主候補を選定する前であれば、算定から精算までに要する期間を確保することができます。遅くとも、基本合意の締結の前には着手してください。

いま確認していただきたいこと

直近3年分の賃金台帳と出勤簿が、月ごとに揃っているかを確認してください。欠落している月がある場合には、業務用端末の記録、入退館の記録など、代替となる資料の有無を調べます。あわせて、賃金規程に定める各手当について、割増賃金の基礎から除外することができるものとできないものを、支給の実態に照らして仕分けてください。

次に、管理監督者として扱っている者の一覧を作成し、職務の内容、権限の範囲、出退勤の自由の有無、待遇を記載してください。この区分に誤りがある場合、金額への影響が最も大きくなります。最後に、直近3年以内の退職者の名簿を作成し、退職日と最終の賃金の支払日を記載してください。遅延利息の起算点となります。

よくあるご質問

一部の従業員に精算をすると、他の従業員からも請求が来ませんか

その可能性はありますので、対象者の選定は、金額の多寡ではなく、法的に債務が存在するかどうかによって行ってください。債務が存在する者を除外して進めれば、除外された者からの請求は、遅延利息を伴って後から届きます。順序を決めて全員を対象とする方が、総額は小さくなります。

買主に伝えずに、実行の後に精算してよいですか

避けてください。株式の譲渡では会社が債務を負ったまま買主の下へ移りますので、実行の後に精算をすれば、買主の資金で支払うことになります。表明保証に違反する事実を認識しながら開示しなかったと評価され、補償の請求を受けます。開示したうえで負担の分配を交渉する方が、結果として売主の負担は軽くなります。

管理職として扱ってきた者にも、遡って支払う必要がありますか

役職の名称ではなく、労働基準法上の管理監督者に当たるかどうかで決まります。経営に関する決定に参画しているか、部下の労務管理について権限を有するか、出退勤について厳格な管理を受けていないか、待遇が一般の従業員と明確に区別されているか。これらを満たさない場合には、時間外労働に対する割増賃金の支払義務が残ります。

退職した従業員にも、こちらから連絡しなければなりませんか

法律上の義務として通知の制度があるわけではありませんが、遅延利息が年14.6パーセントの割合で加算され続けますので、放置は損失を拡大させます。また、買主に対して未精算の債務として開示すべき対象に含まれます。連絡し、金額を示して精算する方が、金額の面でも交渉の面でも有利です。

おわりに

未払賃金の是正は、会社にとって支出を伴う作業です。それでも先に行う理由は、確定した支出の方が、確定していない債務よりも常に小さく評価されるからです。資料を集め、金額を出し、順序を決めて精算し、その経過を書面に残す。この四つを済ませてから交渉の席に着けば、労務の問題が価格を左右する場面はなくなります。必ず解決できますから、一緒に頑張りましょう。

M&Aの前の未払賃金等の是正に関する御相談
弁護士法人M&A総合法律事務所 電話番号 03-6435-8418
受付時間 8:00-21:00(土日祝含む)

出典

  • 労働基準法第24条第1項(賃金の支払)、第37条第1項(時間外、休日及び深夜の割増賃金)、第109条(記録の保存)、第115条(時効)
  • 賃金の支払の確保等に関する法律第6条第1項(退職労働者の賃金に係る遅延利息)
  • 健康保険法第161条第1項(保険料の負担)
  • 厚生年金保険法第82条第1項(保険料の負担)
  • 労働保険の保険料の徴収等に関する法律第15条第1項(概算保険料の申告及び納付)

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    弁護士土屋勝裕
    弁護士法人M&A総合法律事務所の代表弁護士。長島・大野・常松法律事務所、ペンシルバニア大学ウォートン校留学、上海市大成律師事務所執務などを経て事務所設立。400件程度のM&Aに関与。米国トランプ大統領の娘イヴァンカさんと同級生。現在、M&A業務・M&A法務・M&A裁判・事業承継トラブル・少数株主トラブル・株主間会社紛争・取締役強制退任・役員退職慰労金トラブル・事業再生・企業再建に主として対応
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